以前邪馬台国のページは作ったのですがnoteの記事用に、まあこんなふうにも考えられるかなあ、とあまり深く考えずに作ったものなので、もう一度改めて作り直してみます。
倭の五王での考察からすると、5世紀以前の日本書紀の記載は倍暦で記載されていると見てまず間違いがないと思われます。
魏の記録からみる当てはめ
そこでまず魏の使者の記録を確認してみます
魏の使者は景初2年(238年)から正始8年(247年)までの期間になります。
倭の五王でも使用した
391年(日本書紀ではでは神功皇后元年、実際は、応神(仁徳)天皇元年)からそれぞれ
153年前、144年前になります。
これを2倍にすると
306年前、288年前になります。
西暦より皇紀を使うほうが対照を取りやすいので
皇紀で神功皇后元年に当たる861年から引きます。
すると
皇紀555年、573年となります
すると開化天皇51、52年から崇神天皇9,10年に当たります。(開化天皇は開化天皇60年(西暦242年頃)に崩御)
*2つの数字が書いてあるのは倍暦のため西暦の1年が当時の日本では2年分に当たるため
女王国について
邪馬台国が女王国ということについて
これについては倭国から魏に赴いた使者が邪馬台国について
太陽の女性神を祀る国であると説明したことに対して
ギリシアのポリス国家のような概念が理解できなかった
中国の王朝では一番偉い存在を女性の神といっているのだから
中国の皇帝が天帝の代わりというのと同様に
女性神は日本の王のことを指していて、つまりは女王が治めているのだろう
と考えたのではないかと思います
・日本の認識
邪馬台国は女神(天照大神)を最高神として信奉
・中国(魏)の認識
邪馬台国で一番えらい存在は女性=女王がいる
すなわち魏志倭人伝で記載されている邪馬台国の女王としての卑弥呼は存在しなかった、と思われます。
卑弥呼について
さてここで卑弥呼について考えてみたいと思います。
魏志倭人伝の記載ではかつて男王がいたものの
戦乱が起き卑弥呼を女王とすることで収まったとしています。
そしてこの中で卑弥呼は長大=年老いているとしています。
*倭国の争いについては不明です。
欠史八代のところで見た「倭国王帥升(等)」以来中国に来てないことを咎められたからそう答えたのか、
考古学的に戦闘での負傷痕のある遺骨が出てきていることから本当に乱れていたのか、
ただ、倭国王帥升(等)以降中国に渡っていなかったのは何らかの要因があったのかもしれません。
もっともこの部分は当時の開化天皇は倭国側(倍暦)では100歳を超えていることになるので開化天皇の若い頃に何らかの動乱があったのかもしれませんが…
この記述から考えると、卑弥呼はかなりの年齢であることを示しているのですが、
これは倭国の使者が昔話として日本神話のアマテラスとスサノオの対立
天の岩戸、このような話(もしくは原型の話)をしたことで中国側は
昔のことと言っているのだから年老いているのだろう、と考えたような気がします。
卑弥呼の名称について
以前の記事ではヒミコは日御子ではないかと考えました。
しかし、魏に使者を送ったときは開化天皇のときです。
そこで開化天皇の諱を確認してみました。
すると和風諡が
わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと
となっています
そのため
「おおひひ」
が諱であると思われます
ここだけでも「ひ」という字があること
あと当時の尊称については浅学なため知りませんが
ミコト
をつける習慣があったとした場合
オオヒヒミコト
となり、ヒミコの字が入っています。
このことから倭の使者としては開化天皇のことを示していた可能性もあります。
もちろん日御子=太陽神の子
として当時の天皇の尊称のようなものだった可能性もあります。
こちらのほうが卑弥呼の弟が使えるという表現にはあっているようにも思いますが
天皇は太陽神の孫である天孫の末裔としているのでどちらにしろ弟的に解釈可能なので…
2025/4/24追記
隋書倭国伝で
俀王姓阿毎字多利思北孤号阿輩雞彌
と倭王はアメタリシヒコ、オオキミと号すと
昔の天皇の
あめのしたしろしめすすめらみこと
の音訳(オオキミ部分は大王=天皇)
のような記し方をしている点からすると
日御子
というのが当時の天皇の尊称でそれの音写と
見ることに優位な感じもします。
追記終わり 2024/4/24
邪馬台国の位置について
邪馬台国の位置については江戸時代以来近畿説と九州説が2大候補地として論争が続いています。
しかしながら、近年では纏向遺跡での発掘の成果もあり近季節が有力とされています。
また本ブログにおいてもこれまでの記載の通り近畿説を当然のものとしております。
このような論争の最大の原因は魏志倭人伝の記載通りに行くと海の彼方に出てしまうためです。
ではなぜこのような違いがあるのか、取り上げていきたいと思います。
これは、そもそもとして中国(魏)の使者は邪馬台国に行ってないと見るほうが自然であることから見て取れます。
『魏志倭人伝』には、中国の帯方郡の死者は伊都国(福岡県糸島市周辺とされています)に常に留まっていた、と記されています。
また倭国内では伊都国のみに「到」で他は「至」を使用しています。
更にはそれまで非常に具体的な旅程が書かれていたのが、伊都国以降の旅程は日数表記になり、それ以前の里数表記と比べて不明瞭になっています。
(隋書に倭人は距離を里数ではなく日数で計ると記載されています)
更に和人の風習の記述が九州地方の特徴に偏りすぎています。
それ以外にも
・邪馬台国の内部の具体的な様子が記録されていない
・卑弥呼に実際に謁見した記録がない
・卑弥呼のいる宮殿に行ったという記録もない
状態です。
これらの点から、魏の使者は実際には邪馬台国にまで到達せず、伊都国で情報を集め、その内容を邪馬台国の記録として伝えた可能性が高いように思います。
卑弥呼の死の記録について
『魏志倭人伝』には、「卑弥呼の死後、国内で混乱が生じ、男王が立ったがさらに混乱し、最終的に少女(壹与・トヨ)が王になった」と記録されています。
そこで、『日本書紀』を詳しく見ていくと、崇神天皇7年に 疫病の流行や国の混乱があったことから巫女的な存在である倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が神がかりにあった などが記録されています。
これは魏との交流が起こってからの出来事となります。
日本書紀の記載から卑弥呼=倭迹迹日百襲姫とされることがありますが、時代的に少しズレがあるり、期間も短すぎると思います。
ここで魏志倭人伝の記載に戻ってみたいと思います。すると、正始8年(247年)の記録の後にまとめて卑弥呼の死、大きな墓の造営、国内の混乱、後継者である壹与の即位が書かれています。
また卑弥呼の死に「以」という字がついていることから既に死亡していたとよむ説(*)があり、死亡したのを把握したと考えることができます。
(*)岩波文庫 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・ 宋書倭国伝・隋書倭国伝』 P54注(1)より
(むしろ、記載されている卑弥呼死亡後の記載事項の多さ(古墳ができた、争いがあった、など)からから以前に既に死亡していたという説が妥当なように思えます)
そこからこの記事における「卑弥呼の死」が開化天皇の崩御及び崇神天皇の元年となる242年の出来事だったとしても矛盾はありません。
また男王が立ったあと国が乱れ、宗女である壹与が王となったと記載されています。これは、崇神天皇6年に天皇の皇女豊鍬入姫が神祀りをするようになったことに当てはまっているようにも見えます。
2025/04/24追記
日本書紀によれば崇神天皇5年に疫病の流行翌6年に民衆の中での流民の発生や反逆のものがいたとの記載があります。上記の豊鍬入姫の神祀りはその対策の一環です。
2025/0424追記終わり
日本書紀には崇神天皇10年に倭迹迹日百襲姫がなくなり、大市(箸墓)の巨大な墓に葬ったとされています。これは魏志倭人伝の卑弥呼の墓が巨大だったということに対応しているように思えます。
そのため皇族の巫女的な女性である倭迹迹日百襲姫の薨去情報と開化天皇の崩御情報を混同して女王ということを前提にしていたため取り違えた叶えいは十分ありえます
(中国(魏)の使者は九州なのですべて伝聞なはずです)
ここからは卑弥呼の墓=箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫の陵墓)というのは当てはまっていても
統治者としてのヒミコとは限らない気がします。
・卑弥呼の墓=女王と誤認していたことから倭迹迹日百襲姫の陵墓と混合
(注意)純粋に開化天皇の陵墓の可能性もあります。
(そもそもとして皇女豊鍬入姫が神まつりしたあとも倭迹迹日百襲姫が登場しているので開化天皇の崩御に伴う事跡しか表してない可能性も高いような気がします)
2025/04/13追記
倭の五王が中国と交流を持っていた時代に三国志(魏志倭人伝)なり魏略なりが日本に入ってきていた場合は、当然、当時の倍暦を使っていた日本にとっては中国側の暦と自分たちの暦のズレが有ることは承知していることになります。
そのため、当時の倭国の人間が、邪馬台国の時代の魏使の247年の記事を見て、ちょうど同じ年に薨去した倭迹迹日百襲姫の墓を「魏志倭人伝にある巨大な墓」にあたるものと解釈し、箸墓古墳に比定した記録を残した可能性が考えられます。
そして、日本書紀の編纂時に、その資料を活用して日本書紀に記載したとすることができるのかもしれません。
*三国志に注を付けた裴松之は倭の五王の時代と重なる時代を生きた人であることから、当時かなり三国時代の記録が注目を集めていたと思われます。
「倭の五王」の時代(5世紀)にすでに魏志倭人伝(または魏略)が倭国内に伝わっていたとしたら
当時の倭人は、自分たちが使っている暦(倍暦)と中国の暦が違うことは認識
5世紀の倭人が、魏志倭人伝の記録(3世紀・247年の魏使来訪)を見たとき、自国の歴史上で同じ年(247年)に薨去した「倭迹迹日百襲姫」の墓を、「魏志倭人伝にある巨大な墓」とし倭迹迹日百襲姫の陵墓を箸墓古墳に比定
さらに後世(8世紀)の『日本書紀』編纂時に、その「5世紀に作成された解釈資料」を基に、「倭迹迹日百襲姫の墓は箸墓である」という認識し日本書紀の編纂者は、倭迹迹日百襲姫の陵墓は大市(箸墓)である、と記載
が考えられます。
その場合、皇女が埋葬されるにしては巨大すぎる箸墓古墳は開化天皇あるいは、崇神天皇の真陵なのかもしれません。
三角縁神獣鏡について
三角縁神獣鏡について景初三年までしか無いのにもかかわらず、景初四年の物があるようなのです。
これは魏から送られた鏡を元に日本で模して作成したとすると、たまたま受け取った時期と鏡を国内で作成をした時期が当時の倭の暦で年を越したことから、景初四年という本来存在しない年号の鏡を作成したと考えることができるようにも思えます。
鏡を受け取った年と模造した年が「倍暦的に年を越していた」ため、
本来存在しない「景初四年」という年号が儀礼的な刻印として倭国内で自然に生まれた
という形で説明することができるように思えます。
2025/04/13追記終了
壹与(とよ)について
崇神天皇6年に天皇の皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめ)に上記の国内の混乱に対応するため宮中に祀っていた天照大神と倭大国魂の2柱を大和の国に祀るように手配を行っています。
壹与(”トヨ”)=「”トヨ”スキイリヒメ(豊鍬入姫命)」
と考えることができ、魏志倭人伝と日本書紀の記述が一致していると考えることができます。
更に、伊勢神宮の創建伝説には豊鍬入姫命の任務を引き継いだとされる倭姫命(ヤマトヒメ)が深く関与しています。
以上のことから
壹与(”トヨ”)=「”トヨ”スキイリヒメ(豊鍬入姫命)」
の蓋然性はかなり高いように思えます。
(皇女なので開化天皇はもちろん倭迹迹日百襲姫とも宗女になるのでどちらが”卑弥呼”であっても矛盾はありません)
一大率の存在について
魏志倭人伝によれば伊都国には一大率が置かれており、諸国が恐れていたと書かれています。
このことからこの組織は各地に派遣されるものではなく、軍事力を伴った「地域を」監督する立場であると思われます。
地域を統率しているということから伊都国から離れた地域に”中央に当たる存在”があるような感じがします。
以上です。
倭の五王の記事で、日本書紀の記述は正しいようなのでその点を踏まえて再構成しました。
参考文献
岩波文庫 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・ 宋書倭国伝・隋書倭国伝』
講談社学術文庫 『日本書紀 上』
