倭の五王に関しての考察ページのインデックスページです。
完成部分だけご覧になるときは「その5」と「補足」を御覧ください
その1 倭の五王の前提知識+日本書紀の紀年どおりの当てはめ
その2 三韓征伐と好太王碑文を参考に基準年を想定
その3 倍暦で想定してみた当てはめ
その4 応神天皇と仁徳天皇についての在位年=宝算年として想定
その5 雄略天皇に注目して完成
補足 補注等
*この表は仁徳天皇の在位年数が倍暦で考えてもおかしかったため、応神天皇・仁徳天皇同一人物説から着想を得、 即位していても良さそうな神功皇后の即位は認めていないことから皇位は応神天皇に移っていたと考え、 在位年は宝算と同等、また上記の同一人物説から仁徳天皇も同一日に生まれたとして仁徳天皇の在位年も宝算としたところ 後は自然と倭王讃から倭王興までは現在の最有力説と一年の狂いもなく一致した。 (なお倭王武は表の下欄の(*)を参照) | |||||
・暦法は魏志倭人伝の注にある魏略の記述の春秋で1年の記述から、1年を(春秋でそれぞれ年が加わる)2年と数える倍暦とする ・応神天皇の即位年は好太王碑の倭国が海をわたった年と三韓征伐の年を同一=391年とする (神功皇后は政務を幼帝(応神天皇)に変わり行い、称制ではなく事実上の摂政だったとして応神天皇の即位年は391年とする) ・上記により応神天皇の日本書紀に記載の41年は在位年であり、かつ、41 年は宝算とする(ただし倍暦として実年は20年) ・応神、仁徳の在位年は両天皇の宝算、かつ逸話の類似性から同じ年の生まれ(双子or同一人物)であったと推定 (応神天皇の在位後に仁徳天皇を加えると、倭王讃・珍・済に全て当たってしまうため、上記のように読み替え) | |||||
天皇名 | 日本書紀の 在位年数 | 倍暦だった 場合の実年 | 即位の想定年 | 崩御の想定年 | 倭の五王中国史書の記録年 史書に倭王の名がない年は()内 |
(応神天皇 | 41 | 20 | 391 | (411) | |
仁徳天皇 | 87 | 43 | 391(413) | 434 | 讃( 413) 421 425 (430) |
履中天皇 | 6 | 3 | 434 | 437 | |
反正天皇 | 5 | 2.5 | 438 | 440 | 珍 438 |
允恭天皇 | 42 | 21 | 441 | 462 | 済 443 451(460) |
安康天皇 | 3 | 1.5 | 462 | 464 | 興 462 |
雄略天皇 | 23 | 7(+9) | 464 | 479 | 武 (477) 478(下記の欄外(*)参照)(479?) |
清寧天皇 | 5 | 480 | 484 | 下記(*)の理由により倍暦終了 | |
顕宗天皇 | 3 | 485 | 487 | ||
仁賢天皇 | 10 | 488 | 498 | ||
武烈天皇 | 8 | 498 | 506 | ||
継体天皇(確定) | 25 | 507 | 531 | ||
珍が宋書で、讃死して弟珍立つ、の記載について 「すでに倭王讃は死亡、来朝した現在の倭王珍は前の王の弟」と倭国は報告 ・共通認識としては倭王讃がすでに死亡 ・中国側:前の王は倭王讃 ・日本側:反正天皇の前の王は履中天皇(反正天皇の兄) 中国の史書は基本的に前の記載をほぼ丸写しをするのが通例 ⇒最初が間違えていればその後の中国の史書は違っていてもおかしくない | |||||
神功皇后懐妊中に仲哀天皇が崩御という非常事態のための日本書紀の原資料の記録に在位の記録に乱れ? ①日本書紀には女帝の推古天皇、持統天皇は天皇と即位していることいること ②継体天皇が応神天皇の5代孫であり、神功皇后は開化天皇の男系4代孫であることから血統的に皇位継承はおかしくないこと 上記2点にも関わらず神功皇后には即位の記述はなく天皇としては扱っていないことから391年に別の人物(=応神天皇)が即位したのが日本書紀の原記録の意味と推測し、(日本書紀における応神天皇の*1)在位期間=宝算と推定(仁徳天皇の在位年も同じ年に即位しているような構成になっているため少なくとも応神天皇と仁徳天皇は同じ年に生まれている人物であるのは確実*1) *1この最後の一文中の2つの()内(最後に”*1”があるもの)を追記 2025/06/01 | |||||
(*)倍暦に基づくと雄略天皇は475年崩御となる。しかし、倍暦解消が雄略天皇15年と想定される471年頃とすると倭王武び日本書紀における雄略天皇の記載に矛盾が無くなる。 そのため 471年に暦法が改称されたと推定。 稲荷山古墳の出土鉄剣の年と同一なのと何か関係があるかも?遣使が治世末年なのは即位時に皇族間での争いをした影響? |
まずこれで復元が完了しています。
日本書紀は天皇紀ごとに単に記録を当てはめていっただけの可能性が高いと思います。
そのため、日本でのみ完結しているものはかなり蓋然性が高いと思われます。
一方海外の記録との整合性に関しては当てはめがうまく言っていない可能性が高いように感じます。
(日本側に記録が残っていることを起点に倍暦を気にせずに百済本記などに書かれていたであろう記録をそのまま当てはめているように思います、(神功皇后本紀に魏志倭人伝の記述があるのは三国志と言うか魏志倭人伝の情報がすでに日本に入っていて称制期間を置けばちょうど魏志倭人伝の時機に重なるため、称制があったとするのが記紀編纂当時の常識だったのかもしれません)
このようなことからすると、脚色を意図して編纂したというよりは何も気にせずに編纂したら後世から見たらシッチャカメッチャカな歴史書に見えてしまっているのではないかと思います。
このブログにあと2つほど古代の日本を扱っているページがありますが日本書紀は記録に蓋然性が高いと言うほうが現実的なことを示しているように思います。
以上の点から
戦後の日本書紀の取り扱いである、記紀は天皇制の権威を高めるために改変された歴史書とする研究はもちろん、戦前の日本初期の研究、特に雄略天皇以前のものは歴を完全に取り間違えている上に、日本書紀の編集時点で神功皇后の治世を入れてしまっていること、及び、仁徳天皇の取り扱い(応神天皇と同一人、もしくは双子)に絶対的な誤認が生じているようなので、それより過去の取り扱い(14代仲哀天皇以前)は加速度的にズレが生じてしまっていると思われるためすべての研究・解釈がおかしくなっている可能性があります。
これを公表するのは日本の古代史研究、それにとどまらず日本書紀を年代要素として使うもの=国文学研究や民俗学研究などの一部で当てはまるものは、すべての研究成果の見直し訂正が必要になるものなので個人が扱うには少々事が大きすぎるのですが気づいた以上、公表いたします。
https://note.com/hiro9793/n/nbcf562a8817c
noteにも公開(3/29)しています。