前回までで倭の五王について日本書紀の記述で復元できました。しかしいくつかの疑問点が残ります。
倭王珍について
倭王珍は「讃死して珍立つ」と倭王讃の弟とされています。
しかしながら倭王讃とされる仁徳天皇と倭王珍とされる反正天皇は親子です。そして反正天皇は先代の履中天皇の弟となり宋書の内容と会いません。
しかし倭王珍の使者が中国に使者としてやってきた時
先代の王が亡くなり、その弟で新たな倭王の珍が立ったので使者としてやってきました。
となっていただけなのではないかと考えられます。
・共通認識 倭王讃はすでに崩御している
先代の倭王の弟が倭王として入朝した
・中国側:前の王は倭王讃で新たな倭王はその弟の珍
・日本側:前の王(履中天皇)は崩御し、その弟の反正天皇がたった
中国の史書は基本的に前の記載をほぼ丸写しをするのが通例です、そのため、最初が間違えていればその後の記録もそのままだとしてもおかしくはありません。
応神天皇と仁徳天皇の関係
今回仁徳天皇も応神天皇と同じ年生まれとするとすべてがうまくいくこととなりました。そのためこの両帝は同じ年の生まれ、すなわち双子か同一人物ということになります。
説話の類似性等は双子でも同一人物でも成り立ちます。
ただ百舌鳥古墳群の巨大古墳を考えると別の人物、
両帝の崩御と即位の間を服喪期間(*)と捉えると同一人物説へと親和的ですので全くわかりません。
(*)服喪期間に関しましてはこの時、実際に政務をとっていた神功皇后の崩御があったことで神功皇后の政務を行ってきたこと、および開化天皇の四世孫という貴種性から喪に服していたと考えることができます。
そのような存在だからこそ、日本書紀において本紀がたてられるほど重よな存在とされていたのかもしれません。
また応神天皇の年間というものが神功皇后の摂政としての期間であり、仁徳天皇としての期間が親政期間であったと解釈できることからこちらは同一人物説に親和性が高いものとなるでしょう。
2025/3/27
”仁徳”という漢風諡からすると応神天皇と仁徳天皇との間の空位の5年間は母の神功皇后の崩御により服喪期間としていたからという方が自然な解釈な気が…(追記終わり)
倍暦説について
通常倍暦説はまともな説とはみなされることはありません。しかし以前邪馬台国で記事(*)を作ったことがあるのですが、そこでも倍暦を用いたところ、かなり魏志倭人伝の記録と対応可能なものでした。そのため今回の倭の五王の考察面も含めると実際に行われていたと見ることが自然であるように思います。
また当てはめ時には雄略天皇の在位年を合わせる操作でしたが、継体天皇の即位年を考えるとそこに合うとしたら清寧天皇から武烈天皇までの在位年が日本書紀で26年ということを考えれば雄略天皇の在位中に倍歴が終わるのは確実だったなと思いました。
また中国への遣使に関して雄略天皇だけ末年になっているのが気にはなりますが、雄略天皇は先帝や他の皇族を排除しているような感じ名製でなかなか使者を送れなかったのかな、と考えることはできるようにも思います。
日本書紀について
現在、日本書紀は戦前の津田左右吉氏の見解をベースに天皇の権威付けに伝承を付け加えたもので正確性に難があるとされていますが、編纂時の記録を写したものなのかもしれないように思います。
参考文献
新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1 (岩波文庫 青 401-1)
世界古典文学全集 24B(三国志II) 筑摩書房
日本書紀上 講談社学術文庫
歴代天皇在位年 及び 好太王碑文 Wikipedia
解説入り図表
*この表は仁徳天皇の在位年数が倍暦で考えてもおかしかったため、応神天皇・仁徳天皇同一人物説から着想を得、 即位していても良さそうな神功皇后の即位は認めていないことから皇位は応神天皇に移っていたと考え、 在位年は宝算と同等、また上記の同一人物説から仁徳天皇も同一日に生まれたとして仁徳天皇の在位年も宝算としたところ 後は自然と倭王讃から倭王興までは現在の最有力説と一年の狂いもなく一致した。 (なお倭王武は表の下欄の(*)を参照) | |||||
・暦法は魏志倭人伝の注にある魏略の記述の春秋で1年の記述から、1年を(春秋でそれぞれ年が加わる)2年と数える倍暦とする ・応神天皇の即位年は好太王碑の倭国が海をわたった年と三韓征伐の年を同一=391年とする (神功皇后は政務を幼帝(応神天皇)に変わり行い、称制ではなく事実上の摂政だったとして応神天皇の即位年は391年とする) ・上記により応神天皇の日本書紀に記載の40 41 年は在位年であり、かつ、40 41 年は宝算とする(ただし倍暦として実年は20年) ・応神、仁徳の在位年は両天皇の宝算、かつ逸話の類似性から同じ年の生まれ(双子or同一人物)であったと推定 (応神天皇の在位後に仁徳天皇を加えると、倭王讃・珍・済に全て当たってしまうため、上記のように読み替え) | |||||
天皇名 | 日本書紀の 在位年数 | 倍暦だった 場合の実年 | 即位の想定年 | 崩御の想定年 | 倭の五王中国史書の記録年 史書に倭王の名がない年は()内 |
(応神天皇) | (40 41) | (20) | (391) | (411) | |
仁徳天皇 | 86 87 | 43 | 391(413) | 434 | 讃( 413) 421 425 (430) |
履中天皇 | 6 | 3 | 434 | 437 | |
反正天皇 | 5 | 2.5 | 438 | 440 | 珍 438 |
允恭天皇 | 42 | 21 | 441 | 462 | 済 443 451(460) |
安康天皇 | 3 | 1.5 | 462 | 464 | 興 462 |
雄略天皇 | 23 | 7(+9) | 464 | 479 | 武 (477) 478(下記の欄外(*)参照)(479?) |
清寧天皇 | 5 | 480 | 484 | 下記(*)の理由により倍暦終了 | |
顕宗天皇 | 3 | 485 | 487 | ||
仁賢天皇 | 10 | 488 | 498 | ||
武烈天皇 | 8 | 498 | 506 | ||
継体天皇(確定) | 25 | 507 | 531 | ||
珍が宋書で、讃死して弟珍立つ、の記載について 「すでに倭王讃は死亡、来朝した現在の倭王珍は前の王の弟」と倭国は報告 ・共通認識としては倭王讃がすでに死亡 ・中国側:前の王は倭王讃 ・日本側:反正天皇の前の王は履中天皇(反正天皇の兄) 中国の史書は基本的に前の記載をほぼ丸写しをするのが通例 ⇒最初が間違えていればその後の中国の史書は違っていてもおかしくない | |||||
神功皇后懐妊中に仲哀天皇が崩御という非常事態のための日本書紀の原資料の記録に在位の記録に乱れ? ①日本書紀には女帝の推古天皇、持統天皇は天皇と即位していることいること ②継体天皇が応神天皇の5代孫であり、神功皇后は開化天皇の男系4代孫であることから血統的に皇位継承はおかしくないこと 上記2点にも関わらず神功皇后には即位の記述はなく天皇としては扱っていないことから391年に別の人物(=応神天皇)が即位したのが日本書紀の原記録の意味と推測し、在位期間=宝算と推定 | |||||
(*)倍暦に基づくと雄略天皇は475年崩御となる。しかし、倍暦解消が雄略天皇15年と想定される471年頃とすると 2025/3/27 |
大きな操作を繰り返すことがなく、一定の法則のみで最終的にこのようにまとまったことは大変な驚きでした。
これが本来の日本書紀の原資料が示していた年時だったのではないのか、と考えざるを得ないもののように思います。
*2025/3/27 応神天皇と仁徳天皇の在位年は41年と87年みたいですね。単純に引き算していたので間違えました。
今回の倭の五王の考察はこれで終了です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
おまけ
日本書紀の神功皇后52年の記事について
この年百済王の使者が、孫である枕流王を伴って倭国にやってきた使者が来日し、(近)肖古王が、孫の枕流王に倭国の素晴らしさを話したという記載があります。
これを神功皇后52年ではなく神功皇后52歳のときの記録とし、上記で見た応神天皇の40年とされる時代に101歳で崩御したと考えた時、これも倍暦での記録となりますからそれぞれ
応神天皇の20年の時に神功皇后が50から51歳で崩御
この年が411年ということになるので神功皇后が26歳というのはその25年前ということになり386年頃、当時の百済の奥を見ると辰斯王で枕流王は前年の11月に逝去
つまり、枕流王逝去を報告に来た使者が亡き王と倭国との関わりについての思い出話をした記録と見ることができます。
もっともこの後に歴代の百済王の逝去の記事が付されているので矛盾しているように思えるのですが、非常に簡易的な記述ですので日本書紀の編纂者が今は散逸してしまっている百済記・百済本記の記事を神功皇后の記録に当てはめる時に日本側が記録していた神宮皇后52年の記録との整合性をとってしまった、と見ることができますので、それほど奇異ではないのかもしれません。
その前の新羅や百済との記録などは大規模な朝鮮半島出兵の前段階のやり取りなのかもしれません。
(百済本記等から写しただけかもしれませんがかなり描写が詳細なので日本側にある記憶だったのかもしれません)
神宮皇后69年以降の記録がない(32年分、倍歴だと16年分)のはよくわからないですが3歳で応神天皇が立太子したという記載がありますのでそれ以降は本人の本紀にいれたとか…?
(その場合は応神天皇の3歳というのが倍暦になってはいないですが、
強引に解釈すれば日本書紀編纂時にしきたりとして満3歳で行う儀式が書かれていたので3歳と判断したとか…?)
後、この場合は、応神天皇の治世=神功皇后の摂政の期間ということになりますので胎中天皇というのは三韓征伐の当時お腹にいたと言うよりも母の摂政下=母の庇護下の天皇という意味があるのかもしれません。
なお、三韓征伐が神功皇后元年に記載されているのは仲哀天皇崩御後すぐ、応神天皇誕生前の時期に大規模な出兵をしたことの記録があったために当てはめて入れただけなような気がします。
2025/04/18 追記
枕流王の枕流を日本書紀ではトムルと読むのは、まさか枕流王とむる(とむらう)みたいに日本書紀が参考にした資料に書いてあったのを編纂時に読み仮名と勘違いしたとか…?
2025/04/18 追記終わり