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倭の五王から考察を広げていくことで日本書紀の構造は次のようなものであるとわかりました。
・西暦470年に当たる雄略天皇14年までは春秋2倍暦の記載
・西暦471年に当たる雄略天皇15年からは通常の通りの1年(2倍暦終了)
・仁徳天皇の年間のなかに神功皇后と応神天皇の年間が収束している
上記規則で倭の五王をそのまま機械的に当てはめた場合
天皇名 | 日本書紀の在位年 | 倍暦だった場合の実年 | 即位の想定年 | 崩御の想定年 | 倭の五王中国史書の記録年 史書に倭王の名がない年は()内 |
(応神天皇) | (41) | (20) | (391) | (411) | |
仁徳天皇 | 87 | 43 | (391) 413 | 434 | 讃( 413) 421 425 (430) |
履中天皇 | 6 | 3 | 434 | 437 | |
反正天皇 | 5 | 2.5 | 438 | 440 | 珍 438 |
允恭天皇 | 42 | 21 | 441 | 462 | 済 443 451(460) |
安康天皇 | 3 | 1.5 | 462 | 464 | 興 462 |
雄略天皇 | 23 | 7(+9) | 464 | 479 | 武 (477) 478 479? |
清寧天皇 | 5 | 480 | 484 | ||
顕宗天皇 | 3 | 485 | 487 | ||
仁賢天皇 | 10 | 488 | 498 | ||
武烈天皇 | 8 | 498 | 506 | ||
継体天皇(確定) | 25 | 507 | 531 |
稲荷山古墳出土鉄剣
稲荷山古墳で発見された鉄剣は発見されたものの中では日本で最古の十干干支による年数が記載されたものとされています。(471年が最有力であるとされています(531年という異論あり))
しかしながらこれは「発見されたもの」のうちではなく実際に日本最古の”年”が記載されたものの可能性が高いと感じます。言い換えれば、あくまで個人的な見解ですが、歴の考えを変更したことを記念する形で制作が行われたのではないかと推測します。
神功皇后・応神天皇・仁徳天皇の記載
また倭の五王の年数との整合したことからすると、好太王碑文にある倭が朝鮮半島の渡海した年である391年が、仁徳天皇の元年であると推測ができ、神功皇后が称制をしたとされている期間はもちろん応神天皇の在位していた年間も仁徳天皇の在位年に吸収されているとしか考えられません。
ここで日本書紀を考えますと、応神天皇の41年間というものこそが神功皇后が事実上の摂政をしていたのではないか、応神天皇の胎中天皇というものは母である神功皇后が政治を行っていたのではないかと思います。
そして応神天皇崩御と仁徳天皇即位の間の空白期間というものは母・神功皇后の崩御に伴い喪に服していた期間であり、仁徳天皇の在位期間というものは喪が明けて親政を行っていた期間ではないのかと思います。
つまりは仁徳天皇の87年間の在位期間とされていた数字は仁徳天皇の享年を示していたのではないかと思います(実年では43年)
(そのため応神天皇と仁徳天皇は同一人物または双子であった可能性を示しています)
ではなぜ神功皇后の69年間の期間が置かれたかに付いてなのですが、これはたまたま仲哀天皇崩御後の期間と神功皇后の記録が69年間で止まっていたためそれをいれると魏志倭人伝の記録とほぼ重ねることができること、神功皇后が政治を行っていたことが記録されていたことでいれることが常識だったのではないかと思います。(古事記も構成が同じなので)
また、69年間で記録がなくなっているのは5才前後まで成長したあとは応神天皇の記録としてそちらにまとめられていたのではないかと想像します。
逆に391年を起点に邪馬台国の時代まで遡ると、開化天皇の51or52年から崇神天皇の9年or10年にあたり(日本は2倍歴なので2つの年を並べています)崇神天皇即位後の疫病の流行、それに伴う豊鍬入姫による神祀り、更に豊鍬入姫は皇族とかなり魏志倭人伝の記載と重なるところがあり、魏の使者は漢字の使い方的に伊都国が到着地でそこで情報を得ていたことが推測していたと思われますので、多少の異同はあり得ることからほぼ間違いがないと思われます。
倭國王帥升等
107年の倭國王帥升(等)による後漢王朝への遣使も、倍暦で見ると対応するのが孝安天皇であり、諱の中に
くに”おしひと”のすめらみこと
という部分があることから対応の蓋然性が高くこちらも当てはまると言えるように感じます。
遡るときも神功皇后応神天皇の年間は入れずに行うことで整合性があることから当時の資料が神功皇后、応神天皇、仁徳天皇と間違えて並べられていたのではないかと思います。
(もともと三韓征伐は神功皇后初年の出来事とされていますので、391年以前の記録というのは考えにくいので391年以前の出来事については応神天皇と神功皇后の年間は入れていません)
以上から
・西暦470年に当たる雄略天皇14年までは春秋2倍暦の記載
・西暦471年に当たる雄略天皇15年からは2倍暦を終了している
・仁徳天皇の年間のなかに神功皇后と応神天皇の年間が収束している
というのが日本書紀の構造であると考えます。
2025/04/02追記 2025/04/04修正(英文の挿入等)
日本書紀の記述混乱の一番の要因と思われる神功皇后・応神天皇・仁徳天皇のまとめ
神功皇后・応神天皇仁徳天皇関係 | |||||
日本書紀の 在位年 | 想定在位年 | 実際の在位年 | 生年 | 想定 崩御年 | |
神功皇后 | (称制)69 | 41 | 20 | 361? | 411 |
応神天皇 | 41 | 41 | 20 | 391 | 434(411?) |
仁徳天皇 | 87 | 46(87-41) | 20(43-20-3) | 391 | 434 |
*応神天皇が411年に崩御していた場合は日本書紀の仁徳天皇の在位年数の記録からすると仁徳天皇と応神天皇は双子と判断することになる
(同一の人物で、
・前半の応神天皇としての御代を神功皇后が摂政となっていた期間
・後半の仁徳天皇としての期間を親政期間
と見るほうが整合的に思えるがどちらが正しいのかは証拠がなく判断できない。)
応神天皇の別名、胎中天皇、たいちゅうてんのう、あるいは、はらのうちにましますすめらみこと
Taichu-tenno or Haranoutinimashimasu-sumeranomikoto
母親の体内にいる天皇 Emperor in the womb
母の庇護下? It may mean under the protection of the mother.
神功皇后の「享年101歳と称制69年」整理 | ||||
区分 | 表記 | 解釈 | 原因 | 考察 |
称制69年 | 実年で34年程度(倍暦) | 実際は「誕生からの記録」 =年齢記録 | 原資料には「69年間の記録」+「空白」+「享年101」→編纂者が69年をすべて称制と誤認 | 年齢記録を政務年と見なした構造的ミス(称制期間とは本質的に無関係) |
残りの32年 | 実年で16年程度 | 応神天皇の政務記録に転化 | 応神天皇は幼すぎて最初の10年ほどは神功皇后の名義で記録された可能性 | 応神天皇=名目即位 → 神功皇后名義の政務 → 応神天皇名義の記録に段階的遷移 |
服喪空白 | 応神崩御~仁徳即位 | 仁徳(=応神)が母神功皇后の崩御に対して喪に服した可能性 | 記録空白の期間として反映 | 仁徳天皇即位の「遅れ」の理由に極めて自然な説明となる |
神功皇后本紀の外交記事(ほぼすべて時系列が乱れている) | |
問題点 | 理由 |
魏志倭人伝類似の注釈 | 日本書紀の年数を単純に遡ると3世紀中頃になることから機械的に挿入? |
百済王の交代記事との整合性がない | おそらく日本側にもともと記載があった神功皇后52年を基準に割当をしたと思われる |
原資料の引用方法に問題 | 倍暦の観念なく、さらに神功皇后52年を基準に、百済本記などの記録を倍暦を無視して参照・割当した可能性 |
三韓征伐 | 仲哀天皇崩御後すぐに神功皇后が三韓征伐をした記録があったため機械的に神功皇后元年に記載 |
以上追記終わり 2025/04/02
下記のページも合わせてご確認ください
2025/04/05追記
歴代天皇の年齢について
日本書紀は在位年数を基準に年齢を求めているような感じがします。
そのため、皇統に特殊事項がはいると年齢の信頼性が低くなるような感じがします。
仲哀天皇のあと神功皇后・応神天皇・仁徳天皇など
また継体天皇も継体天皇の本紀に武烈天皇の享年を入れてしまったことに引きづられて単純に武烈天皇の崩御のときの年齢に在位年を足しているだけな感じがします。
そのため継体天皇は古事記に記載の43歳で崩御ということのほうが正しいのかもしれません。
また同一人だとしても応神天皇の五世孫というのは応神天皇としての治世下と読めますので必ずしも不整合ではないように思います。
2025/04/05追記終了
2025/04/03追記
🧭 日本書紀に関する現代研究の根本的誤解とその修正の必要性
1. 年次構造に対する誤解
現在の通説では、日本書紀は史実の反映というよりも「後代の虚構」「神話的編集物」とされており、特に年次記録は信頼できないとされています。
It is widely held that the Nihon Shoki does not provide an accurate account of historical facts, but rather represents a post-facto narrative blending mythology and later political motives. The reliability of its year-by-year records is particularly questioned.にもかかわらず、多くの研究は依然として日本書紀の記述を年代判断の基礎資料として用い続けており、二重基準の矛盾が生じています。
Nevertheless, many studies continue to use the Nihon Shoki as a primary source for chronological analysis, resulting in a contradictory double standard.
2. 恣意的解釈の横行
そのため日本の古代史研究においては、日本書紀から自説と符合する記述だけを選び取り、干支・天象・伝承・神話的要素を**恣意的に整合させる「解釈のための解釈」**を繰り返しを行うことが常套手段となってしまっています。
As a result, in the field of ancient Japanese history, it has become common practice to selectively cite only the passages from the Nihon Shoki that appear to support one’s own theory, and to repeatedly engage in “interpretation for the sake of interpretation” by arbitrarily aligning elements such as the sexagenary cycle, astronomical phenomena, traditions, and mythological motifs.これは根本的に、構造の誤認(倍暦や記載形式)に由来する年次ズレを理解しないまま、日本書紀を扱っていることに起因しています。
This fundamentally stems from a failure to recognize structural misinterpretations—such as double dating (bai-reki) or the recording formats—which has led to a misunderstanding of chronological discrepancies in the Nihon Shoki.
3. 編纂上の歪みの影響
特に神功皇后・応神天皇・仁徳天皇の関係性に関して、記録上の独立した扱いが、日本書紀の歴史書の取り扱いに致命的な構造的の誤りをふくんでおり、日本書紀編纂時点で時系列の整合性が破綻していた可能性が高いと考えられます。
In particular, with regard to the relationship between Empress Jingū, Emperor Ōjin, and Emperor Nintoku, the treatment of these figures as historically independent entities in the records contains a critical structural flaw in the Nihon Shoki’s historiography. It is highly likely that the chronological consistency had already collapsed at the time of the compilation.
本来仁徳天皇の生涯を軸に収束するべきである事項を、架空の世代間に分割したことにより、以後の研究がすべて“歪んだ時間軸”上で展開されることとなっています。
By artificially dividing what should have originally converged around the life of Emperor Nintoku into fictitious generational segments, subsequent research has been conducted on a distorted timeline.- 外交記録は日本側の記録を軸に海外の歴史書(魏志倭人伝・百済本紀など)の当てはめをしていると思われることから、海外が関わる記述は歪んだ時空にある物が多いと推測されます。
Since diplomatic records appear to have been constructed by using the chronological entries in Japanese sources as the reference point, and then fitting foreign historical texts—such as the Gishi Wajinden and the Baekje Bonki—to those dates, it is likely that many accounts involving foreign countries exist within a distorted temporal framework.
4. 学術的影響の大きさ
日本書紀を基準に注釈された全ての後代の文献(古注・校訂本・研究書・教科書)は、時代設定の前提自体が誤っており、無意識のうちに「歴史的錯誤」を引き起こしていると考えられます。
All subsequent works annotated or edited on the basis of the Nihon Shoki—including early commentaries, critical editions, academic studies, and textbooks—are thought to be based on a fundamentally flawed chronological premise, and have likely unintentionally contributed to historical misconceptions.この構造誤読が是正されない限り、あらゆる古代史研究は不安定な土台の上で続けることになるように思います。
Unless this structural misreading is corrected, it seems to me that research on ancient Japanese history will continue on an unstable foundation.
5. 必要とされること
日本書紀の「虚構性」ではなく、「誤読された構造的特徴」を見直すことで、年次記録に対する信頼性は歴史書として使用可能になるよう回復可能ではないかと思います。
Rather than focusing on the fictitious nature of the Nihon Shoki, reexamining its structural features that have been misread may make it possible to restore its chronological records to a level where they can be used as historical sources.したがって、日本書紀に関わるすべての史学的注釈や通説は、全面的な再検討・修正の対象となる、=実質的に5世紀以前の日本に関わる文献資料に基づく歴史研究はすべて検討・見直しが必要となるように思われます。
Therefore, it seems that all historical annotations and widely accepted interpretations related to the Nihon Shoki should be open to reconsideration and possible revision. Accordingly, it appears that historical research based on documentary sources concerning Japan prior to the 5th century will also need to be reexamined.- 海外関係の記録は日本側の原記録と思われるもの以外を一度取り除き、適切な時代に再配置するする必要があると思います。
In foreign records, it seems necessary to first set aside any entries that are not based on what appear to be original Japanese sources, and then reassign them to more appropriate points in time.
2025/04/03追記・修正終わり
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