古代における日中の交流を中心とした歴史の雑感

ただのネットの書き物のネタ探しでやったら思いもかけずに日本書紀の本来の体系が見えてきてしまったのですが、

結局は

・戦前の皇国史観による無批判の受け入れ
・戦後の記紀はフィクションとみなす態度

どちらもが間違っていたと思います。

日本書紀(と古事記も)の編者はただ純粋に当時の記録を天皇の本紀に当てはめるために収集しただけだった、そんな感じなのでしょう。
しかし時の移ろいの中に埋もれた記録(春秋2倍暦)の事跡までそのまま編集し、ここにおそらく魏志倭人伝の記録の流入があったことから、女王としての記録にちょうど収まりが良く、政を司っていた神功皇后が称制していた、とした(当時の常識的な考えだったのかもしれません)ために、また、応神天皇と仁徳天皇の関係に注意を振るうこともなく単に機械的に作業をしていった結果なのだろうと思います。
(単純に神功皇后の崩御年を西暦換算すると270年になり、魏の記録よりあとになってしまっていることからしても記紀の編纂は作為を働かしたと言うよりそのまま記録どおりだったのではないかと思います)
そのため年数に大きな開きが生じてしまい、また百済本記などの外国の記録を日本側の記録から矛盾がないように配置してしまったと思われます。
その結果が異常に年数が長く、適当なところに百済や新羅などの記録が挿入された後世の人間からはわけがわからない歴史書が完成してしまったという感じなのでしょう。

今回はたまたまネタにちょうどいい邪馬台国の記事を作る時に一番3世紀に近く基準年になりそうな神功皇后元年と好太王碑文の391年を使った事が合ったこと、また倭の五王がこれもまた神功皇后の子どもである応神天皇以降に比定が行われていたことから同じく391年を基準年としたことで日本書紀の年数の矛盾点を発見することができました。

気づいてしまえば相当シンプルな構造なのですが、三韓征伐を神話のお話とした戦後の日本の古代史の常識からはなかなか取ることができず、逆に戦前までの皇国史観や反主流派の立場の人だと皇統を疑問視することはできないということが今日まで発見されることがなかったのかもしれません。

これがもし確実とされる継体天皇の即位年(507年)を基準に見てしまった場合は雄略天皇の間の暦の変更や神功皇后、応神天皇、仁徳天皇の在位の関係性から逆算していくのもちょっと難しい様に思います。

稲荷山古墳から出土の鉄剣は現在発見された最古の”干支十干による年”が刻まれた考古学の成果物なのですが、この年は雄略天皇が倍歴から今のように一年は一年に変えたと思われる年(471年)であることから、その紀年のようなもので作られたんじゃないかと思います。そのためこの最古の”年”をここから年の概念が変わったと推測が可能といえば可能と言えますが、これより古いものはまだ見つかってないだけ、と考えるほうが自然ですのでやはりこれはあとになればというようなもので実際にやるのはやはりちょっと無理があるのかもしれません。

また。これは最古の干支十干が記された記録ということから記紀に記されている干支十干は後世、記紀編集段階で機械的に当てはめていき、記紀でのズレについては舎人親王のチームか稗田阿礼が勘違いをしただけな感じがします。なのでこの干支十干を使っての記紀の記述の当てはめというのはあまり生産性があるわけではないように思えます。

そのため辛酉の年に神武天皇が即位というのも特に意味はなく遡ったらそうなったって言うだけの可能性が捨てきれないように思います。
(皇紀元年とされる年を倍歴から戻すとBC39or40年頃、近い辛酉の年はBC60年)

更に、日本書紀の記録は過去に遡ると曖昧で6世紀以降の継体天皇以降はほぼ確実と言われていたのも、雄略天皇の時代の470年以前は2倍暦、471年以降は通常通りの年数表記に変わっているのが確実だと考えられますので当然と言えば当然のことだったのかもしれません。
*皇紀で言うと1130年までが倍暦 1131年からは一年が一年のようです。
(なお、神功皇后の称制の時期と応神天皇の在位年を省く必要があるので
神武紀元を求めるとBC39or40頃になるはずです)

倭の五王の復元年表ではきちんと歴代の天皇が収まることから、まずその実在は確かであろうと考えられます。特に雄略天皇よりあとの天皇は実年であることから、基本的には存在性を類推しやすいはずです。
そのため武烈天皇をはじめ、雄略天皇から継体天皇までの期間の天皇の何人かの実在を疑う見解がありますが、記紀の記録を批判というより敵視したバイアスで取り組んでしまったと感じます。そのため、きちんと実証的に取り組む姿勢が必要だったのではないか、と思います。

応神天皇と仁徳天皇の関係性については倭の五王の記事を作っている最中は別人ではあるだろうな、という気持ちが強かったのですが、両天皇の間にある空位の期間、応神天皇の母の庇護下ということを意識できる胎中天皇という別名、”仁徳”天皇という諡からすると服喪期間として喪に服していた、そして改めて親政を行った、と見る事ができることから同一人物であったほうが自然なように感じてきました。

日本武尊について(日本書紀の数字そのままなので数字は半分にして見てください)
この人も日本書紀で見るとかなり矛盾が多い人です。
日本武尊は仲哀天皇の父とされていますが、仲哀天皇の誕生は成務天皇17年であるのに対し、日本武尊はそれよりはるか昔の景行天皇41年に、30歳で薨去したと記されています。これは明らかに年数的に成立しません。
しかし、日本書紀では景行天皇60年に106歳で崩御と記載されています。ところが景行天皇は垂仁天皇37年に21歳で立太子下となっておりこの数字を信じると、崩御したときの年齢は143歳になります。
このように二通りの年数が併存しており、何らかの記録上の混乱があった可能性があります。
そこで、この点を無理に解釈するならば、106歳で崩御とされているのは日本武尊のことを指しており、景行天皇本紀の30歳で薨去というのは、実際には病に倒れただけで回復したのかもしれません。
また、日本武尊は死後、白鳥となり倭に向かって飛んでいった、との説話が入っており、これは、その後の足取り出会った可能性を考えられなくもありません。
その場合は、日本武尊が薨去したのは成務天皇の57年となるため、仲哀天皇との矛盾点は解消されます。もっとも特になにか根拠があることではないので結局はよくわかりませんが…
(こういう矛盾点があるのも日本書紀が単なる情報の集積と言えるように思えます)

 

あとは2個目の邪馬台国関係の記事を作るときは暦の復元に皇紀を使ったのですがこちらのほうがやりやすいなあと感じました。(西暦だと紀元前紀元後が混ざることがあるため(ただし時期によっては神功皇后の称制の時期と応神天皇の在位年を省く必要があるので注意))

なお日本書紀及び古事記は編纂段階で神功皇后の称制期間を採用していることと応神天皇のあとに仁徳天皇の御代の全部をおいてしまっているため、おそらく記紀の完成以降のすべての記紀を使っての日本の古代関係の研究、特に仁徳天皇以前のものは年代設定が相当おかしなものを土台にしてしまっていると思われます。

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