日本史の説明で、「中世の『悪党』という呼び名は“強い”“勇猛”を意味する」と語られることがあります。しかし、本当にそうなのでしょうか。
今回の記事はその点について掘り下げて考えてみたいと思います。
1. 教科書における「悪党」の説明
まずは高校日本史で使用率の高い山川出版社の教科書を見てみます。『詳説日本史』(山川出版社)では、
「鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、地頭や非御家人の侵攻武士たちが武力に訴えて年貢の納入を拒否するなど、荘園領主に抵抗するようになった。
これらの武士は当時「悪党」と呼ばれ…」
とあります。また同社の『日本史用語集』には、
「中世において、党は武士集団を指し、悪党とは社会秩序を乱す集団の意で用いられた」
と記載されています。ここでは「強い」という説明は見られず、むしろ**「秩序を乱す存在」**であることが強調され、そのような秩序を乱す(=悪)武士集団(=党)としています。
2. 古語辞典に見る「悪」の意味
2-1. 「悪源太義平」「悪僧」の例
一方で、小学館の古語辞典などを調べると、「悪源太義平」「悪僧」のように、「悪」に“勇猛”や“強さ”のニュアンスが含まれるかのような注釈が見られます。そこでこの部分について詳しく見ていきます。
- 悪源太義平について
このあだ名は大蔵合戦の活躍によってつけられました。しかし、この戦いは朝廷から許可を得た戦いではなく、源氏内部の私戦です。そのため、朝廷の権威を無視して勝手に暴れた結果つけられた名前になります。
(なお朝廷から正式に討伐を命じられた坂上田村麻呂や源義家には「悪」といった異名はついていません) - 悪僧について
悪僧についても中央政府に対し武力闘争をした者につけられています。例としては、以仁王の令旨に呼応して平家政権に反旗を翻した奈良の寺院の僧兵などが該当します。
これらには**公権力側(朝廷・幕府など)から見て“反乱を起こす”あるいは“無許可で暴力行使をする”**という“秩序破壊”の意味合いも強く、必ずしも“ポジティブに強い”という評価だけを示すわけではないのです。
2-2. 雄略天皇の例:「大(はなは)だ悪しくまします天皇なり」
もう一つ、古語辞典に見られる用例として雄略天皇(日本書紀)の“悪し”の語があります。旺文社の古語辞典には「(性格や行動が)たけだけしく恐ろしい」と解説があり、『日本書紀』雄略天皇2年の記事(岩波文庫版など)には、
天皇、心を以(も)って師としたまふ。誤りて人を殺したまふこと衆(おほ)し
……天下、誹謗して言さく、「大(はなは)だ悪しくまします天皇なり」とまうす。
とあります。これは**“独断専行によって判断を誤って多くの人を殺したため、世間から『あの天皇はひどい』と非難された”**という文脈で用いられ、また「誹謗」という言葉からも道徳的・倫理的に「悪い」という評価が明確に含まれています。
(注)『日本書紀』は同じ天皇を「有徳天皇」という表記もあります
雄略天皇については、『日本書紀』の4年(即位4年)には、民百姓が神と一緒に狩りをしたということから「(雄略)天皇は有徳の天皇なり」と称えたという記事も存在します。
このように日本書紀は同じ天皇を**「悪しくまします天皇」と批判しつつ**、時期や状況によっては「有徳天皇」としても記述しており、特に雄略天皇の全体の評価について「大悪行天皇」としているわけではありません。
3. 「悪党」は本当に“強さ”を意味する言葉?
3-1. 中世の悪党:秩序に逆らう武士集団
中世における「悪党」は、幕府や荘園領主の支配に従わず、年貢の納入を拒否したり武力で抵抗したりする者たちを指す名称でした。当時の権力者にとっては“ならず者”であり、“公権力の秩序”を乱す集団です。
江戸時代や近代にかけて「悪党」という言葉が後年まで伝わるなかで、研究者たちは「必ずしも無法者ばかりではなく、在地の領主や地元の有力武士として人望を得ていたケースもある」とされてきました。しかし、当時の文献表現としては「悪い」「凶暴」「危険」、**“秩序を破壊する”**というネガティブな呼び方であったと思われます。
3-2. 「強さ=悪」という再解釈が生まれた背景:楠木正成の例
では、なぜ「悪」に「強い」という意味合いが生まれたのか考察します。ここからは私見になりますが、戦前期に代表されるように、天皇に忠義を尽くしたとされる武将(楠木正成)が史料で「悪党」と記されているのは都合が悪い、という認識から、「悪」は“強く勇猛”という褒め言葉的な意味もある、という解釈が広まったのではないか、と考えます。
(なお、楠木正成の「悪党」の記載は、後醍醐天皇の倒幕に呼応した挙兵(当時の体制側である幕府への反乱)によるものなので、後醍醐天皇の忠臣としての行為の結果によるものです)
- 楠木正成は幕府(当時の公権力:鎌倉幕府)にとって“反逆者”=「悪党」として扱われる
- 戦前の歴史観:後醍醐天皇の忠臣=「悪い人」であってはならない
⇒「悪党の『悪』は勇猛の意味で、道徳的に悪いわけではない」
といった展開だったのではないでしょうか。
4. 結論:本来の「悪党」は“秩序破壊者”を示す否定的評価
古語辞典において「悪(あく)」や「悪(あ)し」には「猛々しい」「荒々しく強い」という意味が載っているのは事実です。しかし、使われている用例を見ると“カッコよく強い”“賞賛すべき勇猛”といった肯定的評価で使われているわけではありません。むしろ、
- 暴力的・乱暴である(荒々しい)
- 既存の規範や権威を踏みにじる行為をする
- その結果、支配者側(朝廷・幕府・荘園領主等)から「危険な無頼者」と見られる
といった負の要素が本質です。
まとめ
- 教科書・通説での「悪党」
- 中世、幕府や荘園領主に背いて年貢を拒否、武力で抵抗する武士集団。
- 「乱暴者」「秩序を乱す者」という意味が強い。
- 古語辞典での「悪」
- 「荒々しい・猛々しい」「恐るべき強さ」を伴うニュアンスはある。
- しかし基本的に否定的・畏怖的な評価の言葉。
- 雄略天皇の「悪しくまします天皇」
- 『日本書紀』2年記事では「誤って多くの人を殺した」と非難される文脈で使われており、道徳的に悪い行いとして描かれている。
- 同書4年記事では「有徳天皇」とも描かれるため、大悪行天皇というのが雄略天皇の人物全体の評価を決めているわけではない。
- 「悪=強い」説が生まれた背景
- 戦前期などで、史料上「悪党」とされた楠木正成を忠臣として説明する都合から、“悪は勇猛の意”として強調されがちになったと考えられる。
結論として、『悪党』は、当時の支配秩序に逆らい、乱暴な行為をする者たちに対する否定的・ネガティブな呼称であり、決して賞賛すべき存在ではなかったと言えるでしょう。
すなわち、「悪党」は“強く勇猛な集団”というより、“当時の支配秩序に逆らい、乱暴な行為をする者たち”という否定的・ネガティブな呼称が本質だといえるのではないでしょうか?
参考文献・辞典
- 山川出版社『詳説日本史(令和4年検定教科書)』
- 山川出版社『日本史用語集』(2023年発行版)
- 小学館『全文全訳古語辞典』
- 旺文社『古語辞典 第十版』
- 岩波文庫『日本書紀(三)』 坂本太郎 他 校注
最後まで見ていただきありがとうございました。
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