欠史八代についての一考察

欠史八代

欠史八代について第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までは日本書紀の記事中にほぼ書かれていることがなく(崩御時の年齢、在位年、陵墓、家族程度)実在の人物としては記録が少なすぎることから津田左右吉氏がその実在性に疑義を唱え、それが戦後の日本の古代史研究では当然視されてきました。

しかし先に作りました邪馬台国の記事からは、魏の使者は開化天皇のほぼ末年から崇神天皇の在位の前期にかけて日本との交流があったように思えます。

倭國王帥升等

そこでそれより前の中国と記録に残る日本との関連だと、後漢の時代の西暦107年に倭国王帥升という人が後漢に使者を派遣しています。

安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

西暦107年について皇紀で考えると皇紀284年頃であり第6代孝安天皇の治世となります。

その諱?(和風諡?)が

やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと

となっているので上の帥升の文章を見ていたら

王帥升等⇒王(お)帥(し)升(ひ)等(と) ということかな?と思いました。
( 北宋版『通典』には安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口 となっているので
「帥」は「師」だった可能性もあります)

なお、孝安天皇の在位してきた年ですが 日本書紀の紀年を西暦で当てはめると紀元前392年から前291年になります。

これが倍暦だとして修正すると紀元95年頃から145年頃になります。 以上のように倭国王帥升(等)が孝安天皇だとすると当てはまることになります。

また稲荷山古墳からでてきた鉄剣に系譜が刻まれているのですがその中の 意富比垝 が オホヒコ と読めることから 第八代孝元天皇の王子である大彦命であるとする説があります。

信憑性があるのか、ということについてはわかりませんが 欠史八代の天皇のうち三代の天皇については 痕跡らしき物があることを否定でいません。

記録欠如の考察

ではここでなぜ九代以前の天皇については業績がほぼ残ってないのか ちょっと考えてみました。

上に記載した通り、以前邪馬台国の時代を倍暦で考えてみた時に 開化天皇のほぼ末年から崇神天皇の在位の前期ではないかと推測しました。

この魏との交流については倭國王帥升(等)や その前の金印で有名な奴国が後漢に入朝した時(紀元57年) ときとは一つ違いがあります。

それは魏の使者が日本へと来日していることです。

魏志倭人伝(「三国志 魏書 東夷伝」)には、帯方郡(朝鮮半島に置かれていた中国(魏)の領土)の使者は伊都国に常にとどまる、と記載までされています。 これはある程度の期間、魏の使者がとどまれる施設があったと考えることができます。

中国側の人間である魏の使者がとどまっていたということは、ここで文字の伝来が起こった可能性があるのではないか、と推測ができます。

つまり、九代天皇以前というのは記録がないというより、詳しく記録するための方法がなかったために結果として記録が残っていなかっただけではないのか、と考えられます。

もちろんなにか証拠があるわけでもないですし、蘇我の本家が大化の改新に先行する乙巳の変で亡びた時に焼けたとされている「天皇記」や「国記」には記されているかもしれません。

あくまでこれは単なる現状における推測になります

*同語反復的になりますが倭迹迹日百襲姫は第7代孝霊天皇の娘となっていますのでこの場合は第7代孝霊天皇の存在も想定はできますが、外国文献や考古学的な傍証もないので参考程度かなあという感じがします。 2025/04/02追記

*個人的な感想

欠史八代で架空の天皇を加えたということが いまいち釈然としません意味がわかりません。

日本書紀に本紀がある天皇は持統天皇までの41代です。
(古事記は推古天皇までですがこれでも33代です)

ここからたとえ9代分抜いたとしても、中国の王朝と比べると
十分を通り越して代数が多すぎるくらいです。

権威性・神秘性を高めるためのような説明がなされることが あるのですが、
理由とするには少々根拠が薄いように思います。

おまけ1

倍暦に関しては日本書紀に不合理な人物がいます。

武内宿禰です。

この人は神功皇后の称制を認めずにあくまで事実上の摂政
(=応神天皇が在位していた)としても 193年間重臣として登場しています。
倍歴としても96.5年と明らかにおかしいです。
これについては全くわかりません。
もしくは氏に姓をつけているだけなので何代も同じ名で残って記録されているのか職名だったかとしか位しか思いつきません

おまけ2


現在の日本書紀の研究は十干・干支を指標にズレを修正(?)することが多いのですが、これは複雑な計算というか当てはめをしているような感じで生産性があるようには正直思えないところがあります。

なにより根本的なことなんですが、考古学的に見る限りでは現状で干支十干が書いてあるのが出てくるのは5世紀後半以降のもののようですし、古代の日本に干支なんてなかった、すなわち、日本書紀が参考にした5世紀後半以前の原記録にはそんなものはなかったんじゃないかなと言う気がします。
(日本書紀に干支十干が載っているのは単に編者が機械的に当てはめただけで古事記との2周の違いといわれるのも単に編者がそれぞれの当てはめで間違えちゃっただけではないかと…)

(追記)
実際、日本書紀に書いてある十干は単純に当てはめただけのようなので…
神武天皇の辛酉の年即位も単純に在位を遡ったらそうなっただけで、讖緯説にのっとってそうしたとかいうのは近代になってあとから勝手に解釈されただけな気がします。2025-08-06追記


(追記)
欠史八代における簡潔な記述ですが乙巳の変(大化の改新)における蘇我宗家消失した時に蘇我氏の作成した歴史書も喪失したとされていますが、その中で国記ついてのみは中大兄皇子に届けられたとされていることからすると国記の記載されていたものは欠史八代にある記載とほぼ同等のものであった可能性があるようにも思えます。
(乙巳の変で焼け落ちたとされる天皇記の方はいわゆる歴史的事象の記載があり、国記は各天皇の治世年、家族等の記載が記された一種の戸籍(皇統譜)のようなものであったのではないか、とも思えます)
ー2025年11月20日

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

参考文献

 

新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1 (岩波文庫 青 401-1)

 

世界古典文学全集 24B(三国志II) 筑摩書房

 

日本書紀上 講談社学術文庫

 

歴代天皇在位年 (孝安天皇と帥升の年数) Wikipedia

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