邪馬台国関係では新規に作ったものがあります
*この記事は①邪馬台国=畿内説、および②日本の古代は春秋二倍暦説(春と秋にそれぞれ年が改まる暦を使っていたという説)を前提にして推測した仮説となることをご了承ください。(NOTEで公開したものをブログに転載)
日本の古代史における最大のミステリーのひとつ、「邪馬台国」。3世紀の中国の歴史書『魏志倭人伝』に登場するこの国は、女王・卑弥呼によって統治されていたとされます。しかし、日本の正史である『日本書紀』には、邪馬台国の記録がまったく登場しません。
一方で、考古学的には3世紀前半の日本における大規模な遺跡は、奈良県の纏向(まきむく)遺跡をはじめとする近畿地方に集中しています。つまり、考古学的な証拠は近畿に邪馬台国が存在したことを示唆するのに、日本の歴史書には一切その痕跡がない という矛盾が生じていました。
この矛盾を解決する可能性のある新たな視点として、「卑弥呼=日御子(ひのみこ)」という仮説があります。この記事はこの考え方を採用し、魏志倭人伝の記載に関しての疑問点を元に仮説を立ててみました。
1. 「卑弥呼=日御子」?
『魏志倭人伝』では、「卑弥呼」という女性が倭国を治めていたと記録されています。しかし、これは本当に一人の女王の名前だったのでしょうか?
この仮説では、「卑弥呼」は固有名詞ではなく、「日御子(ひみこ)」という王の称号が、中国側の記録によって「卑弥呼」として伝えられたのではないか という視点を取ります。
「日御子」とは、「日(太陽)の御子」、すなわち 「太陽神の代理として地上を統治する者」 という意味を持ちます。これは、天照大神(あまてらすおおみかみ)を最高神とする日本の皇室の信仰体系と一致 します。
もし邪馬台国が 「女性神である天照大神という太陽神を信仰する国家」であり、その王が「日御子」として統治していた なら、中国の使者は、女性神を(一番偉い存在として)信奉しているということを理解できずに、女性がトップに居る=女王がいると中国の使者は誤認し、その国の王が「ヒミコ」と呼ばれていたのならこれを個人名として卑弥呼という女王がいると記載した可能性もありえます。
・日本の認識
邪馬台国は女神(天照大神)を最高神として信奉
「ヒミコ」は王の称号
・中国(魏)の認識
邪馬台国で一番えらい存在は女性=女王がいる
「卑弥呼」は統治している女性の固有名詞
よって、すなわち魏志倭人伝で記載されている邪馬台国の女王としての卑弥呼は存在しなかった、と考えることもできます
2. 魏の使者は邪馬台国に行ったの?
では、このような誤解が出てきたのはなぜなのでしょうか?『魏志倭人伝』には、魏の使者が伊都国に常に留まっていたことが記されており、邪馬台国の内部の様子についての詳細な記述が見当たりません。
具体的には、
- 魏の使者は常に伊都国に留まると記載、また倭国内では伊都国のみに「到」で他は「至」を使用している
- 伊都国以降の旅程が日数表記になり、それ以前の里数表記と比べて不明瞭になる(隋書に倭人は距離を里数ではなく日数で計ると記載されています)
- 和人の風習の記述が九州地方の特徴に偏りすぎている
- 邪馬台国の内部の具体的な様子が記録されていない
- 卑弥呼に実際に謁見した記録がない
- 卑弥呼のいる宮殿に行ったという記録もない
これらの点から、魏の使者は実際には邪馬台国にまで到達せず、伊都国で情報を集め、その内容を邪馬台国の記録として伝えた可能性が高いと言う説があります。
3. 「卑弥呼の死」と「日本書紀の記載」の一致
『魏志倭人伝』には、「卑弥呼の死後、国内で混乱が生じ、男王が立ったがさらに混乱し、最終的に少女(壹与・トヨ)が王になった」と記録されています。
ここで魏志倭人伝の注に春の耕作、秋の収穫を記して年記とするという記載があることから、古代の日本では春と秋でそれぞれ年を加えていた(1年を2年と数えていた)という説があります。これを正しいとして神功皇后の三韓征伐の故事と広開土王の碑文から神功皇后の即位を391年として歴代の天皇の在位年数を機械的に半分にしていくと
・神功皇后の元年は西暦201年
・崇神天皇の即位は紀元前97年
・その間は298年
これが2倍になっているのではないかとの仮定になりますので149年間が想定できる年数となります。
これを神功皇后の即位年が広開土王碑にある倭が朝鮮半島に渡った391年と同一だったとした場合、崇神天皇の即位年は242年だったということになります。
ここで魏志倭人伝はいつの時代だったのかを考えてみますと景初2年(238年)から正始8年(247年)の時期の記録となります。
そのため、当時の倭国と魏との交流は開化天皇の終期と崇神天皇の初期に当たることになります。
そこで、『日本書紀』を見ていくと、崇神天皇7年に 疫病の流行や国の混乱があったことから巫女的な存在である倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が神がかりにあった などが記録されています。
これは魏との交流が起こってからの出来事となります。
日本書紀の記載から卑弥呼=倭迹迹日百襲姫とされることがありますが、時代的に少し連れがあるように思います。
また崇神天皇6年に天皇の皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめ)に上記の国内の混乱に対応するため宮中に祀っていた天照大神と倭大国魂の2柱を大和の国に祀るように手配を行っています。
ここで魏志倭人伝の記載に戻ってみたいと思います。すると、正始元年(240年)以降は倭王という表記になっており、卑弥呼の名は出てきません。そして正始8年の記録のあとにまとめて卑弥呼の死、大きな墓の造営、国内の混乱、後継者である壹与の即位が書かれています。
また卑弥呼の死に「以て」という字がついていることから既に死亡しているという説もあり、現実には正始8年より以前に最初に出てきた卑弥呼が亡くなっていた可能性もあります。
(むしろ、記載されている卑弥呼死亡後の記載事項からより以前に既に死亡していたという説が妥当なように思えます)
そこからこの記事におけるヒミコは倭王の尊称だったという仮定にたてば「卑弥呼の死」が開化天皇の崩御及び崇神天皇の元年となる242年の出来事だったとしても矛盾はありません。
また男王が立ったあと国が乱れ、宗女である壹与が王となったと記載されています。これは、前述の崇神天皇6年に天皇の皇女豊鍬入姫が神祀りをするようになったことに当てはまっているようにも見えます。
更に日本書紀には崇神天皇10年(倍暦法になっているとすると西暦247年(魏志倭人伝に記載の最後の年に一致))に倭迹迹日百襲姫がなくなり、大市(箸墓)の巨大な墓に葬ったとされています。これも魏志倭人伝の卑弥呼の墓が巨大だったということに対応しているように思えます。
これらのことから
- 卑弥呼の墓=女王の名前と誤認していたことから倭迹迹日百襲姫の陵墓と混合
- 壹与(”ト”ヨ)=「”トヨ”スキイリヒメ(豊鍬入姫命)」
と考えることができ、魏志倭人伝と日本書紀の記述が一致していると考えることができます。
4. ヒミコと天孫降臨の親和性
邪馬台国が3世紀の日本に存在したことは確実視されているにもかかわらず、『日本書紀』にはその記述がまったくありません。ここで、上記のように、邪馬台国が大和朝廷の原型とした場合、「天孫降臨」神話として次のように考えることができます。
日本神話では、
- 天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に地上の統治を命じる。
- 瓊瓊杵尊が地上に降臨し、統治を開始する。
- その子孫が神武天皇となり、大和政権を築く。
これを、邪馬台国の統治者「日御子(卑弥呼)」が天照大神の代理として地上を治め、やがて天皇家の祖先として位置づけられたと考えると、非常に整合的です。
5. 考古学的証拠との整合性
奈良県の纏向遺跡は、邪馬台国の中心地と考えられる有力な遺跡であり、そこからは3世紀の大型建築跡や魏の鏡が発見されています。
また、伊勢神宮の創建伝説には豊鍬入姫命の任務を引き継いだとされる倭姫命(ヤマトヒメ)が深く関与しています。もし「壹与(トヨ)」=「トヨスキイリヒメ」だったとすれば、
- 邪馬台国の祭祀体制が、大和政権の祭祀体制へと継承された。
- 太陽神を祀る邪馬台国の信仰が、天皇家の祭祀へと統合された。
と考えられ、邪馬台国の宗教体系がそのまま伊勢神宮の祭祀として残った可能性があると考えることができます。
*この記事は女王としての卑弥呼が存在していなかったのではないかということから作成した記事になります。特に新規の資料に裏付けされているものではございませんので、こんな視点もあるんだね、という温かい目でご覧ください。
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